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飛行機の虜

カテゴリ:慰霊参り( 1 )

導かれるように 白梅の塔 から バックナー中将の慰霊碑 へ

*飛行機の写真とは関係ありませんが、悪しからず。

前々回、霊体が見えたとか、コメントが寄せられる予感が的中したとか、まっくろくろすけ が見えたとして
怪しい記事を作成しましたが、その後も不思議なことがあり、台湾旅行記の作成を途中にして、
急遽 慰霊参り を作成するに至りました。

先にも記しましたが、霊感があるとは思わず、宗教には無関心、無関係で、クリスマスでも平日と変わらない過ごし方、
大晦日も元日も平日通り過ごす私。

ただし、ときどき慰霊参りには行きたい衝動に駆られるため、主に ひめゆりの塔 や 平和祈念公園 に出掛けています。

そして先日、平和祈念公園 と ひめゆりの塔 を訪れた後、かねてより慰霊参りをしたかった、
 白梅の塔 にも立ち寄った次第です。


*カメラは Panasonic DMC-TZ30


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白梅の塔

遡れば、小学3年生頃から大東亜戦争に興味を持ち始め、
小学校の自由時間には図書室で戦争の歴史にまつわる本を読み、特に特攻作戦や沖縄戦の写真を見ては、
「なぜ日本は負けてしまったのか」と悲しくも悔しい気持ちで一杯になった。

大人になったら、沖縄戦で亡くなられた方々の慰霊を沢山したいと思っていた割には、
赴く地が 平和祈念公園 と ひめゆりの塔 に偏重していたので、
以前から気になっていてもなかなか訪れることのなかった 白梅の塔 へ足が向いたわけです。

白梅の塔の石碑

沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。
 米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。
 戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、
隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃(たお)れていった。
その場所は殆ど不明である。
 また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二の両日に亘(わた)り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
 塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十二年一月に建立した。
 毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。

 平成十年六月二十三日

 沖縄県立第二高等女学校 白 梅 同 窓 会





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白梅の塔 の隣には 萬魂之塔 が建立されており、合祀者数は4000余柱。





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萬魂之塔 の隣には 陸軍大尉 中村厳之碑 が建立されており、日本陸軍と白梅学徒隊が協力して防衛に当たっていたことを連想させる。


他の塔にも慰霊参りをしたかったものの、献花が足りなくなったことで帰宅。

そして、その日の晩のこと。

就寝時に2月以来の金縛りに遭い、寝室の入り口から意識体が入ってくるのを感じ取り、その意識体は足元を回って耳元へと近づいてきたのが分かった。
その意識体は私に向かって何かを伝えようと話し掛けてきたのだが、聞き取ることは出来なかった。

もちろん金縛りの睡眠学上のメカニズムは承知しているのだが、視線を感じることはあっても、意識体の動きまで感じ取ったことなど今まで無かったこと。

それが霊的なことではなく、単なる金縛りであったとしても、再び白梅の塔に行かざるを得ない衝動に駆られたわけです。
今まで慰霊塔や慰霊碑、お墓などを撮ることは不謹慎だと考えて、被写体として認識したことはなかったのですが、
自分で撮って、心ある人に見てもらいたい、知ってもらいたいと行動に移したのは初めてのこと。
なので、上の写真は金縛りに遭ってから2度目に訪れた時の写真です。


そして、2度目の 白梅の塔 で、金縛りに遭った時の意識体の伝えようとしていた気持ちが分かった気がしたのでした。
以下に続く。





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金縛りに遭った日から6日後に2度目の訪問

白梅の塔 に行く前に、最初の訪問で行けなかった 山形の塔 の方面から先に回ることにした。 






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山形の塔 の道を挟んで反対側に建立されていたのは 歩兵第32聯隊 終焉の地の石碑。

歩兵第32聯隊の所在地は秋田ー山形。

沖縄戦では、米軍の圧倒的な兵器兵力・物量にも関わらず、追い詰められながらもこの地まで奮戦奮闘していただけあって、
聯隊の錬度は優れ、砲兵の射撃能力も優秀で、連隊砲の命中精度は他の連隊の2倍ほど高かったとか。






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山形の塔 に続く道の前には壕への入り口があった。






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壕への入り口は、柵が設けられ、立ち入り禁止となっている。






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山形の塔

枯れていた花壇の献花は、訪れる人が少ないことを語る。






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平成27年度に山形県鶴岡市立羽黒中学校の2年生が捧げた千羽鶴。




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山形の塔から更に先があり、そこには 眞山之塔 が建立されている。


怒濤の南進を続ける米軍に対し第二十四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮斗敵の心胆を寒からしめたるも ついに昭和二十年六月十七日この附近の壕内において玉砕せり
 ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め永くその遺烈を伝う


昭和四十二年一月 財団法人 沖縄遺族連合会

合祀者数 100柱

その先を見ると、何やら小さな石碑が建てられていた。





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白梅の塔 上の壕

左の竪穴は、沖縄戦当時 軍の物資置場であったが、白梅学徒看護隊の仮眠所でもあった。
昭和二十年六月二十三日 米軍の攻撃を受け、軍人、白梅隊員および一般住民が死傷した。

昭和六十三年六月 白梅同窓会



白梅の塔 だけで慰霊参りをしたつもりになっていたが、実際に亡くなられた場所が近くにあったとは知らなかった。
そもそも下調べをして慰霊参りに行こうとは思っておらず、地図を見て気になっていたから訪れてみたかったという動機。





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白梅の塔 に戻って辺りを散策すると、白梅学徒隊の「自決之壕」の碑を見つけた。





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その側には小さなお堂があり、その真横に学徒隊や負傷兵、一般住民が逃げ隠れていたとされる壕の入り口を発見することになった。

1度目に来た時からお堂の存在には気が付いてはいたけれど、どうも足が向かなかったわけで。





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新たな発見があったのはいいけれど、この壕、全く入る気になれない。
お供え物が薄っすら見えている場所にも近づけない。それは妻も同じ心境だったという。

なので、ここで合掌させていただくことにした。

それでも思った。
金縛りに遭った際、耳元で何かを伝えようとしたのは、上の壕 と 下の壕 があり、それを知ってもらいたかったのではないかと。
そして、私のブログを通じて、沖縄への慰霊に関心がある人にも伝えてほしかったのではないかと。


帰宅後に 白梅の塔 を調べてみたところ、青山繁晴さんが講演会やTVなどで 白梅の塔 を語るようになってから、
徐々に慰霊参りに訪れる人達が増えたことを知った。
そして、青山繁晴さんが37年間通い続けても、未だに入壕する際には恐怖するのだとか。
それでも純粋な気持ちで慰霊をするのであれば、男性なら壕まで入って地面を撫でて慰めると良いと語っておられ、
反面、女性の場合は階段の奥から4段目までにしておいた方が良いとも語っておられた。
何も知らない10代の少女ゆえに、嫉妬するのだとか。

*亡くなったのは学徒隊の少女達だけではないことを強調しておきたい。




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白梅の塔付近の慰霊を終えた後、西に約600m離れた 栄里之塔 へ

ここでも献花と合掌。

歩兵第二十二連隊は第三十二軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける優勢なる米軍に対し熾烈なる砲火をあびせ遂に 米軍司令官バーグナー中将 もこの地に戦死す、
 住民とともに勇戦奮斗せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に抗しきれず善戦空しく昭和二十年六月十七日玉砕し悠久の大義に生く、
 終戦後真栄里部落民は本戦斗に協力せし住民並びに将兵の遺骨12,000柱を収集し栄里之塔を建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う

昭和四十三年 三月  財団法人 沖縄遺族連合会




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栄里之塔 の交差点から南を望む。

人工建造物は少なく、当時の面影が残っているかもしれない。




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交差点には農家さんの無人販売所があり、トマトソースパスタ にして食したところ、とても甘くて美味しかった。

人が多く亡くなった土地で育ったトマトが、誰かの命の源へと繋がっていくということ。





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栄里之塔 の道を挟んだ反対側(西側)にはバックナー中将の慰霊碑 があり、こちらも初めて足を運んでみた。





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バックナー中将の慰霊碑だけかと思っていたが、そこには CLADIUS M.EASLEY(クローディアス エム イーズリー)という名の
陸軍准将の慰霊碑があり、その横には





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米軍歩兵第383 旅団長 EDWIN T MAY(エドゥイン T・メイ)の慰霊碑もあったので、こちらにも献花、合掌をした。

階級の有無問わず、米軍にも多数の死者が出たわけで、その方々の慰霊は平和祈念公園を意識したい。




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そして、最後に バックナー中将の慰霊碑 に献花、合掌。

この後、お墓を背に階段を下り始めると、急に左胸の脇と心臓の間あたりに激痛が走り、
呼吸が苦しくなったことでまともに歩くことが出来なくなった。

階段をゆっくり下ると、少しずつ痛みが緩和されていったが、自宅に帰ってもなお若干の痛みが残っていた。

そして、バックナー中将の死因について調べると(Wikipediaから引用)、

日本陸軍の野戦重砲兵第1連隊第2大隊の九六式十五糎榴弾砲が放った砲弾がバックナーの居た観測所の真上で炸裂、
えぐられた岩片が胸部に当たり10分後に絶命


とあり、夫婦で驚愕した。

あの痛みは バックナー中将の痛み だったのかは分からないけれど、不思議な体験をしたのは確かだ。




これで不思議な出来事が終わりかというとまだ終わらない。


その日の晩、金縛りに遭うことなく寝ていたところ、

「トントントントントン」

という床を軽く叩く音で目が覚めた。

それも隣で寝ている妻の頭の上辺りから確かに聞こえる。

妻が床を叩いているのかと思ったが、深い眠りについていたのでそれは無理。

しばらくすると音が止み、特に怖い気もしなかったので再び眠りにつくと、また同じ場所から

「トントントントントン」

という同じ音で目が覚めた。

そのまま音を聞いていたところ、わずかな時間で音が止んだので、そのまま寝ることにした。


翌朝になって考えてみると、音の発生源は まっくろくろすけ を見た場所から50㎝くらいしか離れていない。

モールス信号だとしても解読ができず、何を訴えているのかは分からないが、三度、白梅の塔 の辺りに出向こうと思う。


この不思議な体験はともかく、読者の方で慰霊参りに関心を持っている方がおられましたら、

沖縄旅行の際には ぜひお立ち寄り下さい。







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by south29island | 2016-04-30 20:45 | 慰霊参り | Trackback | Comments(0)